先日ある僧侶の方の動画を聞いて思ったことがあるので、お伝えしたいと思います。
その方は、「雨」と「雨粒」のお話をされていました。
雨は、雨粒と言う1粒1粒の水の粒が集まって作られている。
おそらく雨粒には、自分が雨だと言う認識はないと思う。
でも、意識はしてなくても、雨粒は雨というものを構成していて、田畑をうるおしたり、人に「今日は濡れて嫌だなぁ」と思わせたりしている。
私たちは全て、必ず何ならかの意味のある存在である、そんなお話でした。
恐らく、私たちは、意識をしていなくても、社会、日本、地球など、私たちが属している世界を構成している一部であるのですから、そのために必要な存在であるはずですよね。
私たちは、一人一人、他人の目から見たら、なんでもない「ただの人」です。
その「ただの人」が集まり、地域とか、企業とか、社会とかの集団を作っています。
その中で、私たちは誰かに対して何らかの意味がある存在なのだと思います。
例えば、毎日がつまらない思っている人がいるとしたら、「こういう生活をしたら、毎日がつまらなくなるんだ」ということを、他の人に教えてくれています。
そこから学びを得て、毎日を楽しく過ごすようになった人もいるでしょう。
自分だけではわからないことも、集団になることで、お互いの違いを認識し、学び合うことができます。
私であれば、シワが増えたかも、肌が乾燥しやすくなったかも、など日々悩みもありますが、そんな悩みは誰かが私を見てくれているからこそ生まれる悩みです。
この世に他に誰もいなければ、シワなど意識しても仕方ありません。
だれかが居てくれるからこそ綺麗でいたいと思い、悩みがあるからこそ美容や健康の研究が進みました。
だからこそ、私たちは以前よりもはるかに若々しく、元気に高齢期になっても過ごすことができるようになりました。
実際に企業の定年も、60歳から65歳に延長されるところも増えてきましたよね。
自分探しや、生きる意味を考えなくても、私たちには必ず生まれてきた意味も、生きている意味もあるのだと考えさせられました。
雨と雨粒のお話は、まるで目の前が開けたような、人生が変わるお話でした。
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